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彼女の趣味
投稿日 : 2016/05/07(Sat) 19:50
投稿者 よしの
参照先
「ムルマンスク魔法師協会支部へ急ぎの発注―― カカオの種子」

小さなランプの灯かりの揺れる部屋に、ペンの走る音が響く。
ガラス窓を軋ませていた強い北風も、桟に積もっていた白い雪も、今はもうない。

ここはノーザラン東部、常夏の島。 かつては『穴倉都市』と呼ばれたパラナ。
かの『暁の儀』から早くも幾日かが過ぎ、巨大な混沌災害による地殻変動と気候の激変にもめげずに
生き残った人々は力強く新しい生活を始めている。

その中でなお、かつての如くに佇むパラナ候イルベットの居城。
領主の寝室からさらに奥、細い廊下の突き当たりに彼女、イングリッドの部屋はあった。

「ええと、森林部隊の編成と北方の魔境の情報整理、商会との交渉、復興予算の試算、それから壊滅した都市の区画整理
 治安維持のための予備兵力の招聘―― 以上はオアリス君に任せておいて、と。
 あら、新発見の薬草の試験? これもオアリス君に。 専門分野ですし、きっと私よりも上手く扱えるでしょう」

ばさ、ばさ、ばさ、と次々に注釈の入った書類が積み重ねられていく。

「イルベット様は新人メイドの研修会の視察、と。 これは寝坊させるわけにはいきませんね」

カリカリとペンが走る。 重要、と二重線が引かれて。

「メイドたちの案内にはモルフェ君を宛てましょうか、顔見せついでに」

んー、とペンをふっくらと柔らかな唇に当てて考えながら。

「彼には、人を率いることに今のうちに少しづつ慣れて頂きましょうか。。
 ――ゆくゆくはパラナの軍勢を率いて頂くことになるやもしれませんからね」

ふふ、と微笑んで。 先ほどの書類、イルベットのスケジュール表と合わせて、脇へよける。

「次。 近々いらっしゃる新しい魔法師の方はメイド長のアリサ様に案内をお願いして――」



―――――



「とりあえず、全ての案件は振り分けられましたね」

一仕事を終えて、あくびをしながら大きく伸びをする。 デスクの上の紅茶はすっかり冷めていた。

「今のところ私だけの仕事はないはずです」

カップを片手に一枚一枚、丁寧に書類に目を通しながら――

「これで大丈夫でしょう。 これで私がいなくなっても全て上手くいく」
 私がいなくてもパラナは滞りなく回らなければいけない。
 居ても居なくても、何の問題もないようにしておかないと――」

そう言って、引き出しから出した丸薬を冷めた紅茶と共に飲み下した。

彼女の命は、いつ尽きるともおかしくない身。
……実際にどうかは分からないが少なくとも彼女はそう思い込んでいる。

「―――」

一方で、少し懸念もあった。 一部の貴族、臣下の動きがおかしい。
かの災厄の後だ、気のせいと言ってしまえば、気のせいで済むのだが。
言い知れぬ不安がイングリッドの胸に渦巻いていた。

「大丈夫―― きっと大丈夫だから」

薬指の指輪を見つめ、そっと口付けする。
今はもう名前も思い出せない、でも、とても大切だった人に祈るように。



「…さ、もう休みましょう! 明日も早いですからね」

明るく気持ちを切り替えて、もぞもぞとベッドに潜っては。

「――あ」

掛け布団からタクトを持った手だけがひょこっと出て一振り。 ふっ、とランプの灯かりが消えた。



“先生”イングリッド・V・ラインブルク。

―――趣味、『身辺整理』。
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